はじめに
北朝鮮ー何をするか分からない国、怖い国というイメージが我が国では定着しているようである。過去、マスコミで流された日本人拉致疑惑、工作船騒動、そして先日の金正男(キムジョンナム)らしき人物の不法入国騒動などイメージをかき立てる出来事には事欠かないが、いずれにしても未消化のままで白日の下で明らかになったものは何もなくすべてが闇の中である。
しかし、どのようなイメージの国であったとしても朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)を愛し、国づくりに汗を流している人民がたくさんいるのは事実であり、そして日本から一番近い隣の国である。しかし、戦後50年以上経った今も国交がなく「近くて遠い国」と呼ばれてきた。
日本の中でも島根県は朝鮮から一番近い県の一つであるが、20世紀最後の年であった去年、佐々木県議を中心にして島根県日朝友好促進議員連盟が立ち上げられ、続いて県内各階各層からなる島根県日朝友好親善協会が産声をあげた。
佐々木県議の胸中には“国家体制が異なっても襟を開いて話し合えば必ず分かり合えるはず。ましてや隣人であり、日・中・朝・韓、手を携えて21世紀のアジアを創っていかなくてはならない”という熱い思いがあったようである。もちろん、外交権は中央政府の専権事項であるが、揺れ動く国内・国際情勢の中、地方の熱い思いが国交の扉を開くチャンスを創る可能性も否定できない。現在、日朝間の国交樹立交渉は入り口で暗礁に乗り上げているが、やがて国交の樹立された暁には様々な疑惑も明らかになり、日・朝に横たわる日本海(朝鮮東海)は疑惑や不信の海から交流の海へと大きく変わるだろう。
朝鮮的儒教社会主義
万寿台(マンスデ)高台の朝鮮革命博物館前で右手を前にかかげた金日成(キムイルソン)主席の巨大な像。平壌空港着後、朝鮮対外文化連絡協議会(対文協)の鄭倫会(チョンユンへ)日本国担当局長の案内で献花をおこなった。メーデーの日ということもあって拝礼に訪れる人並みが絶えることがない。
翌日は、故金日成主席の遺体が安置されている宮殿を訪問し拝礼を行ったが、ここでも人並みの絶えることなく拝礼する朝鮮人の中には涙ぐむ人もいた。同行した金相逢(キムサンボン)さんもここに来ると目頭が熱くなるという。
かつて、高麗王朝は人民統治の方法として儒教を取り入れたが、高麗、朝鮮と時代が経ていく中で、宗教ではなく生活規範として定着していった。中国も、そして日本も儒教世界の一員であるが、高麗の取り入れた儒教は発祥の地中国でも定着しなかった教えの厳しい朱子学であった。
朱子学の教えの定着振りは、後々中国をして「東方礼儀の国」と言わしめたが、教えの定着が災いして朝鮮王朝の大停滞を招いたという人もいる。
儒教は父親への孝(あるいは国家への忠)を中心とする序列規範であるが、朝鮮においては西洋的合理主義思想である社会主義により国家のフレームを創り、人民の骨の髄まで染み付いている儒教のしきたりを巧みに取り入れることにより儒教的社会主義国家を建設している。
抗日運動の優れた闘士であり、建国の指導者であった金日成主席はまさに朝鮮人民の父であり、国家建設のすべての分野において率先して指導をしなければならず、また子供である人民は父を敬い孝をつくさなければならない。
ソ連邦の初代大統領であったゴルバショフも朝鮮的社会主義はよく理解できなかったようであるが、中国の指導者は金正日総書記への権力の継承について以下のように述べている。ー社会主義としては理解できないが、儒教としてはよく理解できるーと。
柳京ー平壌
1950年に始まった朝鮮戦争でほとんど廃墟と化した平壌は三国時代には北の強国高句麗(コグリョ)の都がおかれていた場所であり、まちの中を貫流する大同江(テドンガン)とその支川、そしてあちこちに点在する小高い丘等々がまちづくりの基礎的条件を満たしており広い道路とバランスよく配置された建物、そして各種のモニュメントが美しいまちを創りだしている。雑然とした韓国のソウルと比べるとある種の格調を感じる事ができる。スローガンも繊細に処理されており中国のようなケバケバしさはない。
民芸運動家柳宗悦は、民族の美意識を中国のかたち、朝鮮の線、日本の色彩と表現したが、民族の美意識は朝鮮では受け継がれていないようである。
そして、支川普通江(ポドンガン)−平壌を代表する樹木が何かは知らないが、川(水辺)と柳が見事すぎるほどマッチする場所は平壌市内でも随一ではないだろうか。平壌は柳の京とも呼ばれ、川沿いにたくさんの柳が植えられているが、やはり柳は普通江に限るようである。
38度軍事境界線の北から
軍事境界線という呼称からかなりの緊張感を想像して行ったが、38度線上に建つ会談場の窓の向こうで半身を隠しながら我々を窺っている韓国軍の兵士以外にこれといって緊張感を感じるものは何もない。去年の6月15日以来マイクによる宣伝合戦もなく、検問ゲートから38度線会談場に至る約2キロの非武装地帯ではのんびりと農耕が営まれており、むしろのどかさを感じた。
朝鮮半島では1945年の日本の敗戦を受け、そして、すでに芽生えていた東西冷戦の波をもろに被ることにより1948年に大韓民国、そして朝鮮民主主義人民共和国が誕生した。
やがて、建国の2年後には朝鮮戦争が勃発し、同属が血で血を洗う悲惨な戦いを3年間行った後に停戦協定を経て38度線が設定された。
歴史に「もし」ということは禁物であるが、「もし」日本による朝鮮支配(日韓併合)がなかったら今日のような分断という悲劇は無かったのかも知れない。40年間にも及ぶ植民地支配の間に朝鮮では自主的な統治機能は失われており、植民地時代に独立を模索した抗日の闘士が数多くいたにもかかわらず、結果的には米国・ソ連・中国の干渉なしでは国づくりをすることはできなかった。
ドイツを東西に分断したベルリンの壁、ベトナムを南北に隔てた17度線。前者は東ドイツの崩壊によって、そして後者はベトナム人自身の手によって境界が取り払われた。
ドイツ・ベトナムそれぞれに統一の引き金となった状況は異なるが、民族による自主的統一であったことに変わりはない。朝鮮半島の統一は、建国の歴史等々から米・ソ・中の絡みがあるが、ドイツ・ベトナムの例を引くまでもなく統一は民族の問題であり、民族の話し合いによる平和的自主統一こそ唯一の道である。その時こそ、隣国でありかつての加害国であった日本は具体的に何をなすべきか、そして、在日80万人をはじめとする在外同胞は対立の壁を乗り越えて何をなすべきかを真剣に考え、答えを出さなければならない。
古都開城そして妙香山
開城(ケソン)はKOREAの語源となった高麗(コリョ)王朝の都が置かれていた地である。わずかな滞在時間の中でじっくりと町を見ることはできなかったが、車窓から見える柔らかな曲線で構成された朝鮮らしい家並みの美しさには感動した。そして、開城で忘れてはならないものは朝鮮人参である。当地では高麗人参の名称で販売されていたが、開城は人参栽培が最初に行われた地であり、まさに朝鮮人参のふるさとである。
そして、白頭山、金剛山とともに名峰の一つに数え上げられる妙香山。妙香山は、その姿が妙を極め神秘的で香気が漂うところから妙香山と名付けられたと案内書にあったが、一般的に半東北部の山容は大陸的でありスケールが大きい。高麗という国名も朝鮮半島が“山高く水麗しい”地であるということから命名されたそうである。妙香山までは、以前は列車を利用し平壌から4・5時間もかかっていたようであるが、現在は高速道路が整備され2時間足らずで到着する。民族の神聖な地である妙香山にはさずがに伐採の手は入っておらず、緑は豊かであり、水も麗しい。途中のバスの車窓から見える山々は伐採や開墾で赤茶けた禿山が多かったが、まさにここは別天地である。
車窓から見た光景ー雑感
平壌空港が近づき名古屋からのチャーター便は高度を下げるとまず眼に飛び込んできたのは、赤茶けた大地であった。95・96年に朝鮮が被った大水害はまさに想像を絶するものだったようである。今回の旅行は平壌の普通江ホテルに宿泊し、バスで各地に移動する旅程となっており、車窓から農村を垣間見ることができた。平壌から開城、そして妙香山へ。往路復路の車窓の向こうに広がる農村の光景はやはり衝撃的であった。樹木のない禿山と地力の低い赤茶けた畑がつづく。
朝鮮では1948年建国以来食糧の増産を国是とし、千里馬運動を展開する中で60〜70年には一定の成果をあげてきた。しかし、臨戦体制化の国であり、農業技術の分野で優秀な技術者を育てることがないままに無理な連作、セオリーを無視した開墾を行い、やがて地力は衰え、災害に無防備な国土に変溶させてしまった。もともと地力の低い大地であったが、とうもろこしの連作はダメージが大きく、また、赤土の大地での山の樹木の伐採、そして中腹までの開墾は防災上大きな問題である。
朝鮮では95年の大水害以降、世界に対して食料の支援を求めているが、当分の間支援に頼らざるをえないであろう。しかし、長期的には山の緑の創造と地力の回復に力を注ぐ必要があり、隣国日本で培われた森林技術、そして集約型の農業技術は充分に力となり得る。
国際政治という高いハードルがあるのも事実であるが、もし朝鮮の人民と政府・党が植林等の協力を望むのなら、対岸に住む我々の協力が友好親善のささやかな一歩になるのではないだろうか。
(訪問団員 藤江)