わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

金子みすヾ童謡集『わたしと小鳥とすずと』JULA出版局
『生命の不思議』
こんなタイトルだったと思う。
まだ長男が幼稚園に通っている頃、次男を寝かしつけながら長男と一緒にテレビを見ていた。
一人の女性の妊娠出産までを追ったドキュメント番組だった。
妊娠出産は当時の私にとってもまだ記憶に新しく、自分の時と重ねてその女性の心境を共感するように見ていた。

その女性も妊娠に気が付いた頃から、まだ見ぬ我が子に思いを馳せて出産の準備をしていく。
ベビー用品を揃えたり、食事にも気を遣い、夫と一緒に子どものいる生活をシュミレーションしていた。
その様子はとても楽しそうで、食欲が落ちたつわりの時期も「ちっとも辛くない」と話していた。
一方、お腹の中の赤ちゃんは日々大きな成長を遂げていく。
番組では、母親の子どもを想う心の動きを感動的に綴る反面、赤ちゃんの成長を学術的に解説していった。
おたまじゃくしのような姿から、頭や手足が解るようになり、次第に目鼻立ちがはっきりしていく。
エコーでお腹の中の様子を探って、指しゃぶりをしているところを見せられて、その女性は嬉しさのあまり涙を流した。
妊娠6ヶ月を過ぎた頃には性別がエコーでも確認できるのだが、その女性は「楽しみにしておきます」と、赤ちゃんとの対面の時を心待ちにしている様子だった。

いよいよ出産という時に陣痛で苦しがる母親の姿を見て、長男が私の手をギュッと握った。
「お母さんも苦しかった?痛かったの?」と心配そうに私の顔を覗き込む。
「うん、凄く痛かったよ」と答えると、テレビ画面に釘付けになった。
苦しがる母親の側には、その夫がずっと付き添っている。
赤ちゃんの頭が出てきて、医師が引っ張り出した時、赤ちゃんが大きな泣き声をあげた。
それまで苦しみと痛みで顔をゆがめていた母親は、赤ちゃんが生まれた瞬間、感激で涙ぐんでいた。
看護婦が「女の子ですよ」と告げると、父親になった男性も大喜びで生まれたばかりの我が子を写真に収めていた。

             「お母さんも僕が生まれてきた時、嬉しかった?」

長男は少し間を置いてこう聞いた。
私の答えを聞くのが怖かったのか、自分の存在を母親はどう捉えているのか確認するような感じだった。
テレビの中では赤ちゃんを抱く母親が「子どもは親を選べませんから、私が精一杯愛情をかけて育てていきたいです」と、我が子の誕生の感動を素直に語っていた。

             「もちろん、とっても嬉しかったよ!」

私もそう思っていた。
今だってそう思っているけど、自信が持てない自分が歯がゆくてたまらない。
元気な産声を聞いた時、初めて腕に抱いた時、初めておっぱいを飲ませた時、幸福感で一杯だった。
そなのに毎日の疲労感から、つい感情的に叱ったり、長男を叩いてしまって自暴自棄に陥ったり、決して褒められた母親ではない。
子育ての孤独感から夫に八つ当たりしたり、何もかも投げ出したくなった時だって1度や2度ではなかった。
私の子どもとして、この世に生まれ出たこの子は、幸せなのだろうか?
こうした疑念が常に付きまとい、罪悪感と無力感に支配され、時々背を向けたくなる。

私が『子どもは親を選べない』という言葉に拘っているのに気が付いたのか、まだ5歳になったばかりの長男が「僕ねぇ、覚えてるよ」と悪戯っぽい表情で私の顔を見ながらこう言った。

             「僕が選んだよ、お母さんが良いって僕が選んだんだよ」

この言葉を聞いた時、肩の力がすぅーっと抜けたように感じた。
選んで生まれてこれるものなのか、神秘の世界での出来事は誰にもわからない。
幼い長男の優しさが言わせた言葉だったのだろうけど、『癒し』とはこういうところに潜んでいるのだと、確信できた瞬間だった。



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