「このみち」

このみちのさきには、
大きな森があろうよ。
ひとりぼっちの榎よ、
このみちをゆこうよ。

このみちのさきには、
大きな海があろうよ。
はす池のかえろよ、
このみちをゆこうよ。

このみちのさきには、
大きな都があろうよ。
さびしそうなかかしよ、
このみちを行こうよ。

このみちのさきには、
なにかなにかあろうよ。
みんなでみんなで行こうよ、
このみちをゆこうよ。

※かえろーかえる
金子みすヾ童謡集「このみちをゆこうよ」JULA出版局
私の父は腕のいい船大工だった。
海が大好きで、どんな海にでも乗り出せるような、立派で性能のいい船を作ることを夢見て
親方の下で修行を続けたそうだ。
戦後の復興で湧き立つ日本で、父はがむしゃらに働いた。
大きな船会社に就職して、大きな客船やクルーザーをどんどん作った。
時代と共に船の材質や用途が変わっていったが、父は夢を抱いた頃と少しも変わらず
私たち家族を養う為にがむしゃらに働いた。
「一ミリでも長さが狂うと海に沈んでしまうからな、何度も確かめながら釘を打つんだよ」
子どもの私を相手に、夕飯時には晩酌をしながら父がよくこう言った。

ある日、父が浮かぬ顔をして会社からいつもより早く家に帰ってきた。
母は父の顔を見るなり事情を察したらしい。
昭和40年代のオイルショックの煽りを受けて、父の会社は倒産してしまったのだ。
翌日から父は、父を慕っていた部下たちの再就職の為駆け回るようになったが、
時代にそぐわない船大工の職場はみつからない。
そうこうしている間に、船大工に拘らず家大工の道に進んで行く者もいた。
父の腕をかって、条件のいい家大工の仕事を持ちかけてくる親切な人もいた。

「自分には出来ない、誇りがあるからな」

当時父は母にこう言って頭を下げたらしい。
「つまらないことに拘って損しちゃったのよ」と、今では明るく笑顔で話す母だけど
それから暫く仕事がない父に代わって家計を支えていたのは母だった。

小さな小屋を借りて、小さな釣り舟を作って売ったりもしていたが
材料費を差し引くと小遣い程度にしかならず、母一人の収入ではやっぱりきつくなってきた。
「でも海から離れたくなかったんだ」
会社が倒産して2年が経った頃、父は田舎に帰って漁師になる決意をした。

漁師の仕事は海が好きな父を朗らかに変えてくれた。
今日は大漁だったといっては仲間と酒を酌み交わし、時化てダメだったといっては酒を飲んだ。
今では引退し、時々孫を磯釣りに連れて行っては逃した大物の話をするらしい。
客間のサイドボードには、父が作った大型クルーザーの模型が飾られている。
孫が欲しがっても「これはおじいちゃんのものだからダメだ」といって触らせもしない。
腕が鈍るといけないからと言い訳して、自分で仏壇まで作ってしまった。
「次に行く場所くらい自分で作らなきゃな」と誇らしげだ。

今年74歳になる父は、今癌と戦っている。





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