第二編 地頭時代

第五章 神西家の滅亡


 永禄6年(1563)9月、尼子氏と毛利との合戦があって尼子の敗戦に終わった。この戦いによって、尼子に属していた武将の多くが毛利に降参した。神西三郎左衛門もこの頃以後に毛利に降参したらしい。(白鹿城合戦)

 弘治3年(1557)に「神西城は落城した」という事がいろいろな書物に出ているが、これはもとの1書が誤っているからである。弘治3年には毛利氏は出雲へ攻め入ってはいない。山陽地方に事が多くて手が出せなかったからである。石見の邑智郡までは攻め入った。しかし毛利が出雲へ大挙して侵入するだろうということはわかっていた。そのため出雲の諸将を富田城に集中したことであろう。神西城主もこの時から城へは帰らなかったかもしれない。実際に神西城が毛利の手に入ったのは永禄4年(1561)か5年(1562)の頃と思われる。

 永禄8年4月、毛利軍は富田城へ総攻撃をしかけた。御小守門という大手門を守っていた諸将14人のうちに神西三郎左衛門の名があって、それから後、9年冬の富田落城まで神西氏の名が出ていない。富田城にたてこもっていた諸将士はぽつぽつと毛利に降参して、開城の際にいた武士らしいものは百余人という小人数であった。

 こうして尼子義久は毛利に降り、周防の国に幽囚(ゆうしゅう)の身となった。この頃、尼子の一族に勝久という人がいて、京都東福寺で僧になっていた。尼子の残党は、この勝久を押し立てて大将とし、出雲へ攻め入ったのが永禄12年(1569)の事で、富田落城から4年目にあたる。この時神西三郎左衛門は毛利の配下になっていて、伯耆の末石城主であった。毛利に降(くだ)っても、再び神西城には帰れなかったのである。この彼が、尼子再興軍に味方することになったことについては、『雲陽軍実記』に次のように書かれている。

          神西三郎左衛門再び尼子方に一味の事

  神西三郎左衛門は、先年富田籠域の砌(みぎり)、7年以後は元就公に属し忠勤を抽(ぬ)きんでけるゆえ、二心なき者とて、伯州末石に置かる。中原善左衛門、小寺佐渡守を相添へ守られけるところ、勝久雲州へ切り入り給ひ、武威再び熾盛(さかん)なる故(ゆえ)、神西も味方に戻(もどり)りたく思はれけれども、今は毛利無二の忠臣と成りければ、卒爾(そつじ)に(にわかに)は言ひ入れ難く、山中、立原どもへ評議有りけるに、山中謀(はかりごと)を工夫して禅僧一人を呼び出し、聢々(しかしか)申し聞かせ、末石へ遣はしければ、かの憎、神西へ対し四方山(よもやま)の物語の序(ついで)に、「山中鹿之助殿は、今敵味方と隔たり居られ候ふても、明け暮れ神西殿の御事なつかしく慕ひ給ひ、旧交忘れ難く、我々にもかねて御物語り御親切に候間罷(あいだまか)り帰り恙(つつが)なく御渡り候趣(おもむき)をも語り申すべく候。何なりともこれに御手跡を留め下され、持ち帰り、山中殿に見せ申さば、さぞやゆかしく思ひ給ふべし。」と、扇子一本差し出し、神西も、日ごろ朋友の情浅からぬ間なれば、否(いな)にも及ばず、1下地抜群の能書にてはあり、かの扇を取りて、「ふるから小野の元柏(もとがしわ)」とばかり書いて渡し、よくよく伝言給ふべしとて、くれぐれ申し含めければ、かの僧直ちに帰り、山中、立原にこれを見せ、巨細(こさい)に(くわしく、こまごまと)末石の有様を物語りければ、山中、扇をよくよく見て、「さては神西もその身は毛利にありながら志は尼子を忘れずと見えたり。2古歌に、《石(いそ)の上(かみ)ふるから小野の本柏もとの心はわすられなくに》と言ふ心を込めて書きたり。」さらにかの憎を再び遺し、なにとぞ尼子を助け給へと、よくよく申し遺しければ、3子細(しさい)に及ばず、4一味の約束せられけり。しかれども、中原善左衛門こざかしき兵(つわもの)なれば、討って捨てんはわが二心の障(さわり)とならん。小寺佐渡守は幸いこの節軍議のため、芸州へ遺したれば、中原一人は討ち易しとて、謀(はかりごと)をめぐらし、討手の者を定め、碁会を催し、林阿弥(りんあみ)といふ大力量の者を碁の相手にして、すべて碁の言葉を尽くして助言し、「切る」と言はばその時切るべし。もし切り損じたらば林阿弥組み留めよと議定して、ある日、囲碁をぞ催しける。神西と討っ手とは見物に助言数々ありて後、「そこを切る」と言ひければ、討っ手の者、抜き打ちに、丁(ちょう)と切れば、中原早業(はやわざ)の達人なれば、心得たりと碁筒(ごけ)に受け、一尺八寸の脇差(わきざし)を抜き合わせ、討っ手の眉間(みけん)を切り付くる。二の太刀にては林阿弥を切って落とせば、神西すかさず中原が弓手(ゆんで)を切り落とし、即座に首を掻き落とし、ねんごろに葬り、供養し、それより神西は勝久公とともに味方にぞ帰りける。

 神西三郎左衛門が尼子勝久につくと、勝久、山中幸盛、立原久綱は連名で、神西、久村、三分を与える証文を渡した。このうち、三分の代地として石見国池田ということにした。

 元亀元年(1570)春、尼子勝久軍は布部山に陣を取る。毛利の大軍はこれを攻め、ここで大合戦があった。この時、神西三郎左衛門の名が見える。後の末次城の戦いにも三郎左衛門が加わっている。この年の暮れまでは、出雲において両軍の戦いが絶えなかった。この年の秋、毛利元就は病にかかり安芸に帰る。そこで吉川元春が一人残って尼子軍と戦っていた。

 さて、元春は数千騎の将として神西城で年を越し、雲州平定の策を練った。この頃尼子軍はすでに衰えて、一部は島根郡(ごおり)新山にいて、一部は伯耆の国にはいっていた。三郎左衛門はこれと一緒に伯州にいる。やがて元春は本陣を高瀬城(斐川町)に進めた。そこで尼子勝久は隠岐に逃げ、伯州の尼子軍もまた潰(かい)乱状態となり、三郎左衛門は因幡の国まで落ちて行った。尼子再興軍に運命の神が味方しなかったのである。これは元亀2年のことである。天正元年(1573)尼子勝久と尼子の残党はことごとく京都に集まった。神西三郎左衛門もまたその中の一人であった。

 ここで勝久以下尼子の一党は織田信長の配下となり、天正5年3月、豊臣秀吉の毛利攻めの先鋒(せんぽう)(先陣)として播磨(はりま)国(兵庫県)上月(こうつき)城に陣を取った。毛利軍は大軍をもってこれを包囲した。秀吉も四万余騎を率いて来援し、上月城の隣りの高倉山に陣を張った。その頃には毛利軍は六万余騎になっていた。両軍互いに戦ったが、秀吉方の荒木村重が敗れたため、秀吉の陣も危うくなった。ところが、4月29日の夜、にわかに秀吉は陣を払って退却したので、上月城は孤立することになった。城内には2千数百騎しかいない。

 こうしてついに上月城は開城しなければならないことになった。そこで、勝久兄弟と加藤彦四郎、神西三郎左衛門の四人は切腹し、あとの者は城を出ることに決まった。この時の神西三郎左衛門の切腹は実に見事なものであったという。『陰徳太平記』では次のように載っている。

 7日2日神西三郎左衛門元通(もとみち)、城ノ5尾崎二出テ自害スト披露(ひろう)シケレバ、諸軍士群集シテ見物ス。元通城中ヲ出テ、肩推(お)シ脱(ぬ)イデ大刀ヲ抜キナガラ、此来嗜(ひごろすい)タル道ナレバ、声イト美シク鐘馗(しょうき)ノ曲舞(くせまい)ノ半(なかば)ヨリ「槿(あさがお)ノ花ノ上ナル露ヨリモ」卜緩々(ゆるゆる)卜謡(うた)ヒ、「哀レナリケル人界ヲ今コソ離レ果テニケレ」ト、末ヲ少シ謡ヒ更(か)ヘテ、声ノ下ヨリ腹十文字二掻キ切ッテ伏セ二ケリ。哀レ尋常ナル自害哉(かな)卜見ル人咄(はなし)トゾ感ジケル

 神西三郎左衛門は書もよく書き、碁もうつという多芸ぶりで、謡(うたい)もできる人であった。しかし、決して優柔な人ではなかった。『雲陽軍実記』で大内、毛利、尼子3家の盛衰を論じているところで、

 尼子にも、亀井、山中、立原、神西、宇山等智勇全国に名を得し人傑有り

とあり、これでもその風格が想像できる。

 末代三郎左衛門の妻は、熊野村字森脇という所にある枡形(ますがた)城主森脇市正の姉であるが、市正は天正2年(1574)に毛利に降っていた。尼子勝久の一党が上月城に立てこもった時彼女も城内にいた。三郎左衛門がいよいよ切腹と決まった時のことである。妻も一緒に自害しようとして刀を引きよせたが、三郎左衛門はこれを止め、尼になるように勧めた。そこで仕方なく上月城を出て京都に入り、ある家に宿を借りた。乳母1人と下女2人を連れていた。やがて誓願寺の貞安上人に戒を受け尼となった。たまたまこの宿の隣りに、松江の白潟生まれで松尾6勾当(こうとう)という琵琶師がいた。その勾当という女は尼の所によく話に行き、尼も来るというふうにして仲よくなった。ところがこの勾当の家には、織田信長の近習(きんじゅう)(主君のそば近くに仕える家来)で不破将監(ふわしょうげん)というのが時々遊びに来る。そしてこの尼を見て、自分と再婚するように勧めてくれと勾当に頼んだ。勾当夫婦は彼女が再婚できないわけをいろいろ話したが、将監はなかなか承知しない。そして、自分の言う通りにしなければ、おまえたち夫婦とあの尼とを殺してしまうぞと脅しつけた。

 事がこのようになってきたので、尼は自殺を決意し、仏壇にある夫の像を拝み、歌を詠んだ。

  後(おく)れ行く道は迷はじかねてより契る心を花のうてなに

 【大意】 これからあなたの後をしたってまいりますが、かねてから死ぬ時は同じ(蓮(はす)の)花のうてなにすわりましょうと約束していたことですので、道に迷うこともなくまいります。

 そうして桂川のほとりに行き、岸の柳の木の下に如来の尊像をすえ、念仏してから、指の血で書いたのは次のような歌である。

  思川(おもひがわ)沈む水屑(みくず)も浮むせをみのりの舟にかけて頼まん

 【大意】 思川に沈んでいるごみも流れているうちに浮かんでくる瀬があるように、この川に身を投げる。私も救われて浄土に生まれることができますように、み仏のお力におすがりしてお願い申します。

 こういう辞世(じせい)の歌を残し、乳母と一緒に手をとりあって入水(じゅすい)して死んだ。このなきがらは、おさいという女房によって発見され、貞安上人の手で厚く葬られた。49日の法要がすむと、このおさいという下女もまた、尼と同じ場所に入水して死んだ。3人の墓は同じ上人によって建てられた。京都ではこの話がたいそう美しい話として、当時評判になった。『陰徳太平記』では「神西元通の妻義死の事」としてこれを伝え、その終わりに、

  この様体を聞く人、語り継ぎ言い継ぎて、皆袂(たもと)を湿(ぬら)しける。それのみならず、かたじけなき7雲の上まで聞え上げられ、弓馬の家に生まるるものは、女性の身までかく節義を思ひ、命を軽くしけることの哀れさよと、8叡(えい)感ありければ、9三宮諸王百官の末まで、皆涙を流して感賞し給ひけるとかや

とある。

  【注】 1下地抜群の能書=素質がすばらしい書き手 2古歌=「古今和歌集」に「読み人知らず」として出ている歌。「いそのかみふるから小野の本柏」は「もと」をひき出すための序詞で、歌の意味には関係はなく歌意は、「お互いの交際の始まった初めの心は忘れられないことだ。」 9子細に及ばず=かれこれ言うこともなく 4一味=味方をすること 5尾崎=山すその一段と突き出ているところ 6勾当=盲人の官名で、検校(けんぎょう)の下、座頭の上にあたる 7雲の上=皇居、宮中 8叡感=天子が感嘆すること 9三宮諸王百官=宮中の数多くの皇族や役人たち

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