第二編 地頭時代

第六章 神西家の血統及び家臣


 神西家の世代順は、元祖が高通であることでは一致しているが、その後の順はよくわからない。元禄10年(1697)に武田和泉守が編纂(さん)した「八幡大神古証文」によると、高通、元通、景通、時景、貞景、清通、惟通、為通、廣通、連通、久通、国通、の12代である。八幡宮境内に小野高通以下を祀(まつ)る小野社というのがあって、それに位牌(いはい)が納めてあった。この社(やしろ)は神西家滅亡後に建てられたものと思われる。また、十楽寺墓地には、住職の墓の右上の所に神西家の墓がある。その墓碑銘には、

 開基高通尊霊 神西城主元祖 時景霊 元通霊 景通霊 貞景霊 惟通霊 為通霊 廣通霊 連通霊 久通霊 国通霊 清通霊

とあって、12基が1列に並べてある。この碑も神西家滅亡後に建てて記念としたものである。かりにこの碑を二基動かして、時景の碑を景通の次へ、清通の碑を貞景の次へ置くと、八幡宮のものと一致する。それにしても、第三章の「所領」のところで述べた譲り状では、惟通か清通としてあるので、これと順序が逆になることになる。このような混乱は神西家が通称を用いていたから起こるものである。神西家は後には代々三郎左衛門で通っている。元服名(さむらい名)を用いたのは私的な書類だけで、公称は通称であったからである。

 貞応2年(1223)小野高通が入部してから神西城が毛利の手に入るまでは335年で、末代三郎左衛門が上月城で切腹するまでは358年間である。吉野朝廷の頃、田儀の地頭に古荘四郎左衛門尉という名が見える。神西家とは関係があるようだけれど、ここでは省略する。神西家は本姓は小野で、字(あざ)(別名)は初め古荘、後に神西としている。

 天文、永禄の頃、神西甚允という名が見える。神西家の一族である。神西家の一族中には、後に毛利の臣となって、今でも長門(山口県)にその血統が続いているものがある。出雲市でも、神西、今市、知井宮に4軒あり、大社町日御碕にもある。いずれも神西を姓としている。崎原にある「岩之本」も墓には、「小野末孫市郎右衛門」としてあるので、神西の一族とわかる。瀧姓は長門にもある。

 代宮家の家譜によると、武田家と姻縁のある神西家の臣には、竹澤丹治、糸賀権吉、家老西村某、西村長左衛門などがある。西神西の正久寺は家臣の三宅某が創建したものである。

 応仁の乱の後は、各地の守護地頭の間に戦いが繰り返され、武士の需要も多くなったが、落城その他の事情で浪人になるものもある。戦国時代の旅行者といえば、浪人と山伏だと言ってもよいほどであった。その浪人はまたいずれかの城主の家臣となる。さきに5人の家臣をあげたが、彼らも初めから神西の住人ではなかったかもしれない。天文以後は戦いも激しくなり、大部隊の戦争になったので、各地の城主も領地に応じて軍兵を出すようになった。そのため百姓(農民)も出陣したり籠城したりしなければならないようになってきた。第二章に名の出る小村弥兵衛を、武田家譜では家老職にしているが、「八幡宮記」では百姓にしてあるのもこのような事情からで、初めは百姓で、後にその家が武士になったものであろう。小村伝市で27、8代になる。

 次に家職について述べよう。代宮屋の調べによると、「屋号白銀屋(しろがねや)、小野高通の家臣として仕へ、金銀細工、刀剣の鋳鍛等諸道具の調達をなす。今25代目、往古より代々家職を継ぐ」とある。一説には、小垣内(こがいち)という家があったが、今その家はない。そこの老人は、自分の家の方が白銀屋よりも古いと言っていたという。また代宮屋の調べでは、「屋号鉄砲屋、現代は伊藤甚之助、往昔(むかし)神西高通以来三代の家臣として仕へ、1鉄砲の調達をなせしは今より十数代前」「屋号馬具屋、現代は伊藤新次郎、神西家に仕へて馬具の調達をなせしは今より二十幾代前」とある。岩坪谷口の西側に、「かぢや」とかいう地がある。これは刀鍛冶の屋敷跡ともいう。野津愛造の話に、「わが家は神西家の紺屋で、もと家は岩坪谷出口の南西にあった]と言っているそうである。

 【注】 1現代=現在家を継いでいる人。

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